三宅一生さん逝く

デザイナーの三宅一生さんがお亡くなりになりました。

私は東京のK計画事務所での修行時代ご縁があり
三宅さんの会社が入居する事務所ビルを設計の際に
担当者として何度かお目にかかりました。
 
その中で、今でも心に刻まれているエピソードがあります。
 
設計の打合せで伺った三宅さんの事務所の会議室で
天井に埋め込まれたエアコンを指差して一言、
 
「なんでエアコンは天井についているんですか?」と。
 
エアコンの生暖かい風が頭の上から当たるので
集中して物事を考えるのによろしくない。
空調は人間が心地よく仕事ができるように設計されるべきではないか、と。
 
正直に言えば
三宅さんに指摘されるまで、そんなことを考えたこともありませんでした。
 
事務所ビルのエアコンは天井に埋め込まれているのが一般的で
それまで、その常識を疑うことも、気づくこともありませんでした。
 
しかし、
建築は本来、人間が心地よく過ごす場所であるはずです。
その本質から考えれば
確かにエアコンを天井につけるのは正解とは言えません。
 
もちろん、理想的な空調を実現するには
床暖房や床吹き出しなど、よりコストがかかる方法が必要なため
経済性を求められる建物では難しいかもしれません。
 
それはそうだとしても
人間にとってなにが大事なのか、ということからものづくりを考えること、
それを当たり前に実践されている三宅さんの哲学に触れたような気がしました。
 
ほかにも
現場で作業していた鉄筋工のニッカポッカ(裾広がりのズボン)を見て
その独特の形状を「とてもいいね〜」と感心したり。
 
別の機会には
ヘルメットのインナー用の紙帽子に興味を示したり。
 
とにかく
先入観にとらわれない眼差しにはとても刺激を受けました。
 
常識ではなく、人間にとっての本質からものを考えること。
 
先入観にとらわれず、純粋な感覚で感じ取ること。
 
これらは、今でも物事を考える起点になっています。
 
自分がデザインという仕事に向き合う上で
とても大切な気づきを与えてくれた三宅さん、
ただただ感謝です。
 
 
 

皆川明の展覧会 「つづく」

GW前の4月23日から皆川明の展覧会が福岡市美術館で開催されています。
ちょうど臼杵の家へ行った帰りに、見学してきました。
 
 
 
 
 
 
会場には、これまでにデザインした400着以上の服が並んでいます。
 
服の形はとてもオーソドックスですが
生地や柄、色合いなどはどれ一つ同じものはなく
その創作に込めたのエネルギーにため息が出ます。
 
 
 
 
 
 
定番のタンバリン
 
一見、何気ない柄に見えますが
それぞれの輪は正円ではなく、あえて微妙な歪みをもたせ
さらに細部にもこだわり抜いています。
 
 
 
 
 
 
このメモにもあるように
刺しゅうはあえてラフに、でもジンタン(丸い粒)は重ならないように
明確な意志をもってイメージを方向づけています。
 
 
 
 
 
 
この三つ葉では刺しゅうによる輪郭線が一定ではなく
毛羽立ちの具合をあえてランダムに、ラフに表現しています。
 
 
 
 
 
 
こちらの生地は、遠目にはわからないのですが
近づいてみると色違いの糸を無数に織り込んでいることがわかります。
 
そこには、人の心を動かすほどの濃密な表現が込められていました。
 
 
 
 
 
 
うさぎをモチーフにしたこちらのパターン
 
白地にブルーのうさぎを配したそのパターンはシンプルですが
ブルーの色は水彩画のような微妙な濃淡があり
人の手でしか得られない不均質な温かみが現れています。
 
それは、まるで陶器の表情に通づるようです。
 
絵付における形の揺らぎや色のにじみ、かすれやムラなど
人の手でしか生み出すことのできない、唯一無二の味わいがあります。
 
 
 
 
 
 
なかにはこんな挑戦的な服も
 
知らない人が見れば、ぼろに間違われそうですが
意図的に生地を破いているようなデザインです。
 
表地はくすんだ色なのに、
破れたところから覗くスカイブルーの鮮やかな色がとてもスリリングで
ギリギリのバランスを取っているようにも感じます。
 
 
 
 
 
 
一着一着に渾身の思いを込めて生み出されたこれらの服たち
 
皆川さんが自身のブランドを立ち上げた頃、
巷にあふれていたのはDCブランドの刺激的な服たち。
それは、バブル時代の熱狂を象徴するような消費される一過性の存在でした。
 
奇抜さや派手さばかりを競い合うようなそれらの服に対し
「特別な日常の服」にこだわって作られてきたこれらの服は
使い捨てではない、着る人一人一人の記憶を刻みながら
服とともに紡がれる時間を経て、その人にとっての愛着となっていきます。
 
このことは、建築という異なるフィールドにいる自分にとっても
バブル時代をリアルタイムで通過してきた同時代人として
とても共通する感覚を覚えます。
 
バフルの頃は、まさに建築は使い捨ての極致にありました。
とても大きな存在であるはずなのに、
非常にはかない、薄っぺらいものになっていました。
 
本来、建築は服以上に長い時間を生きるはずの存在です。
そこで日々積み重なる時間が暮らす人や家族にとって
かけがえのない時間となり、それがいつか愛着となるように。
 
皆川さんのものづくりを通して
改めてその思いを確認することのできた貴重な機会です。
 
 
 

アートの効用、岡山芸術交流にて

今回で2回目の岡山芸術交流に行ってきました。
(前回記事はこちら)
 
会場は岡山市内の美術館や岡山城、その他、
いくつかの民間の建物や公園などが活用されています。
 
写真の旧内山下小学校
校庭と校舎全体を丸ごとアート空間として活用しています。
 
 
 
 
校庭に展開するパーフォーマンスやオブジェ、
道路を挟んだ向こうのテレビ局の壁面には映像作品があり
敷地を超えて、まちそのものがアート空間となっています。
 
 
 
 
校舎は昭和8年に建てられた由緒ある建物
 
少子化による統廃合で廃校となってしまっていますが
ノスタルジックで趣のある空間は、アート空間として見事にはまっています。
 
 
 
 
教室内の展示空間とオブジェ
 
 
 
 
こちらも市内に残る旧福岡醤油建物
 
黒漆喰の木造の建物が存在感を示していますが
内部が展示空間として活用されています。
 
最近は、明治から昭和期の建物が老朽化に伴って解体され
まちの歴史がどんどん失われていく、とても残念な状況です。
 
そんな中、
最新の現代アートと古い建物のマッチングは
歴史を伝えつつ、文化を発信することでまちを活性化するという
新たな可能性を示しています。
 
 
 

美醜の境界

改装中の小屋裏収納
コンパネやシナベニヤ、間柱などの下地材による構成です。
 
右奥から差し込む光のグラーデーションで空間が艶めいて
チープな素材のパッチワークと光の共演が美醜の境界を曖昧にします。
 
もちろん、現実的には裏方の空間なんですが
これを表に使い変えるとかなり鋭い空間になりそうで、
思わずそそられてしまうのは私だけだろうか・・・
 
 
 

坂本杏苑さん、個展

本丁蔵部での開催された
書家の坂本杏苑さんの個展に行ってきました。
 
 初期の作品から今日までの作品が集められ、
作風の変遷も楽しめる趣向になっています。
 
 
 
 
主屋の玄関に掛けられた作品
 
白い画面にモノクロの墨が描く線とにじみによるコンポジション、
坂本さんの心の中にある心象風景が現れているようです。
 
 
 
 
座敷床の間のしつらえ。
 
和の空間にしっくりとはまる掛軸。
それぞれのものたちが響き合う美しい空間です。
 
 
 
 
展覧会の空間構成に使われていた掛軸。
 
「これは作品じゃないんだけど・・・」と言われたのですが
作者の素顔が垣間見えるような自然な雰囲気がとても気に入ったので
坂本さんにお願いして特別に手に入れ、事務所の打合せ室の壁にかけてみました。
 
ときはなる松のみどりも春くれば今ひとしほの色まさりけり
 
古今和歌集の春の歌、
新春にふさわしい風情ともども味わいたいと思います。
 
 

何気ない風景@櫛ヶ浜の家

工事現場に現れたタレル!
 いや、正確にはタレルっぽい風景です。
 
現在、再生工事中の築95年の町家、
雨よけのために窓を覆っているブルーシートから漏れる光が拡散し、
ほの暗いブルーな空間に変容していました。
 
作為のないところに図らずして現れたジェームズ・タレルでした。
 
 

何気ない風景@虹ケ浜

 
虹ケ浜の現場近くにゴジラが出現!
 
環境美化に関心をもってもらうために表現されたというこのゴジラ、
流木でつくられたその姿はなかなかのクオリティですが
安全を懸念する県の要請を受け、製作者により自主撤去されることに。
 
危険 → 撤去 というのは、異質なものを排除しようとする日本民族のDNAゆえか?
危険 → 安全にする という柔らかい発想ができないところに
活性化しない日本社会の問題の根深さが表れています。
 
危険で景観を阻害する空き家がなかなか撤去されないのとは対照的ですが
期せずして社会の矛盾をついた浜のゴジラ、
「オレはいつでも戻ってくるぜ!」と笑っているようにも見えるのです。
 
 
 
 

 

岡山芸術交流7

 
 
 
 
 
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夕暮れの街角に現れた巨大アート
マイケル・グレイク=マーティンの「信号所」
 
蛍光灯の電球がポップな色合いで描かれ、
スケールアウトした大きさが常識を揺さぶって、街を刺激的な場所に変えています。
 
 
実際の街灯と響き合うように映るアートの電灯、
何気ない夕暮れをワクワクさせるスパイスです。
 
 
 
 
 
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隣にはこれもカラフルに彩られたタワー
リアム・ギリックの「Faceted Development」
 
 
今回、まちや地域の文化財にも展開したアートイベント、
窮屈な美術館のハコを飛び出して、より自由な表現を獲得し、
まちにさまざまな刺激を与えているようです。
 
ヨーロッパでは公共の場は屋内、屋外の境を越えて市民に開かれていますが
このイベントでは、アートの力によって様々な境を越えて、
まちを生き生きとした場に変容させています。
 
まさに、まちを活性化させた貴重な機会だったと言えるでしょう。
 
 
 
 
 

岡山芸術交流6

 
 
 
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岡山芸術交流、最後にスポットへ
こちらも前川國男設計による林原美術館。
 
なお、この門は岡山城二の丸にあった長屋門を移築したもの。
この地の歴史や文脈を意識した街並みの形成を図っています。
 
 
 
 
 
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長屋門をくぐると道が斜めに折れ、その先の階段に視線が誘われます。
緩やかな階段を上ったところに低く抑えられた美術館の入口が見えてきます。
 
単純な構成ですが、大胆に場面を展開しながら
躍動感のあるアプローチ空間を創り出しています。
 
 
 
 
 
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館内に入って最初に出迎えてくれたのは大きなヤドカリ!
 
なんでヤドカリ・・・?
と、一瞬戸惑うのですが、よく見ると借りている「ヤド」が仮面です(笑)
 
生物とアートが混在してさりげなく違和感が漂っています。
 
 
 
 
 
DSC052600憂いを帯びた表情で何を思う.jpg
 
 
次にあらわれた映像作品、
能面にインスピレーションを得た仮面をモチーフにしたもの。
 
憂いを帯びた表情は、物思いに耽る少女を連想させますが・・・
 
 
 
 
DSC052601と思ったら、瓶を倒す凶暴に変貌.jpg
 
いきなり、瓶を激しく倒し、凶暴な性格に豹変!
 
んっ!
少女の腕が毛むくじゃら!!
 
そう、仮面をかぶっているのは人ではなくサルなんです。
 
サルに仮面をかぶせることで、野蛮な獣と少女が同居する
どうにも整理のつかない、不可思議な感覚が頭の中を駆け巡ります。
 
 
 
 
 
DSC052602顔が蜂の巣に覆われたか?蜂の巣人間か?.jpg
 
庭に横たわる女性の彫像
 
こちらも、やばい!
顔が蜂の巣に覆われてしまっています。
 
いやいや、
もしかするともともとただの人間じゃなくて、蜂の巣人間なのかもしれません!
 
 
もはや、人間とそうでないものの境がわからない異次元に入り込んでしまったような、
これまで生きてきた経験を裏切られるような、そんな体験です。
なんとも興味深い。
 
 
 

岡山芸術交流5

 
 
 
 
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岡山城、不明門
厳めしい城門の上屋の中にアート作品があるということでまずは拝見。
 
 
 
 
 
 
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島袋道浩の映像作品「弓から弓へ」
 
2台のコントラバスを演奏していますが、右側の弓はなぜか弓矢の弓!
まじめに演奏しているところに、逆にユーモアを感じます。
 
古来、狩猟や戦争に使われた弓をヒントにバイオリンが生まれたとも言われるそうで
そのことが直裁に表現されています。
 
この作品が「戰の象徴」でもある城、それも城の文化財が置かれた部屋にあるのが
なんとも示唆的です。
 
音楽やアートは平和の象徴でもあります。
争う時代から平和な時代に変わった今、この作品を見ることで
改めて平和であることをじわりと感じます。
 
 
 
 
 
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本丸に設営された仮設足場によるジャングルとその入口
これはリクリット・ティラヴァーニャが手掛けた茶室とその路地。
 
仮設フレームでつくられた結界、
その林の中を飛び石ならぬ仮設の床材を渡っていくという趣向。
 
 
 
 
 
 
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路地の途中に置かれた盆栽
 
3Dプリンターでつくられてたいわば「フェイク」ですが
「美とは捏造である」という茶道に潜む本質を暗示しているようにも見えてきます。
 
 
 
 
 
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矩折りの路地を進んだ先にある正方形の茶室
 
仮設資材やフェイクなど、常識を覆す表現は茶道の精神そのもの、
茶道と現代アートとの親和性を改めて感じます。